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社会思想の古典を論ず 2010

水産学部 斉藤潤

 

 

「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから人も信用できなくなっているのです・・・・かつてはその人の膝の前へ跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです・・・・幸福な一対として世の中に存在するのです。」

これは、夏目漱石の「こころ」の引用文である。

いきなり恐縮であるが、私は評を論ずるようなことはしたくない。この行為こそが、人間の資質を発揮する格好の場となることを恐れてやまないからである。できれば、自分の中だけに留めておきたいものである。しかし、社会状態にいる我々はそれを避けては通れないらしい。そのことをまず念頭に置きながらこのレポート課題を始めることにする。

私は初読において、人間不平等起源論が結局何を言いたいのか正直わからなかった。しかし、再読すると少しぼやけていた輪郭がはっきりしてきたと自覚している。自己を問へ他者にではなく、とルソーは最後の方で述べているが、私はこう言ってのけたルソーを私淑する。人間でありながら人間を客観的に分析する労を厭わずに、真っ向から挑む姿勢は敬服に値する。だが、やはり疑問に思えてならないのだ。なぜなら結局のところルソーは、自己を問うことは不可能である事を知った上で言っているとしか思えてならないからである。人間(野生人も持っているもの)には憐みの情があり、これは自然からの贈り物である。しかし、いつしか人間はこの惻隠の情を理性でコントロールするまでに至る。これが自由の行為者という呼称を得た所以であるとルソーは言う。そして自由の行為者となった人間は理性でもって、何を顧みるのか。ここで言う自己とは、他者あっての自己であると私は解釈した。要するに自己とは、自然状態から遠く離れた文明による創造物であり、文明人によって仕立て上げられた虚像なのではないか。ゼウスが人間を作る時にそうしたように、憐みの情が野生人から文明人まで等量に注がれているものだとしたら、理性という光がレントゲンのように人体を透かすことで不正が明らかになり、そのことが原因で不平等が生じたものなのか、または理性を行使することで憐みの情の量が減り、理性に自己が完全にコントロールされることで不平等が生じたものなのか。換言すると、身体的(超越的)なものによるのか人為的によるものなのかである。宗教という言葉自体がタブー視されている我が国においては後者が濃厚であるし、もはや他国にしても万事共通ではなかろうか。自己の外に生き甲斐を求める人類は、深紅の豊饒なる実の味を忘れることはもうなかろう。

我々の社会の枠組みの中では、人類の行き着くところは犬か主人のどちらか一方である。両者は鎖で繋がれている関係に変わりない。社会状態で生きている以上この負の連鎖は永遠と続くものである。ここまでつらつら書き連ねてきて引用文に何一つ触れてこなかったが、まさに漱石は的確にそのことを表していると言えよう。また漱石は、自己というものが信用できないのなら天に任せればよいという則天去私という独自の境地に至るのである。天に任せるとはおそらく存在論的世界に身を委ねる努力をすることであると私は解釈した。ここで努力としたのは、今更言い改めることでもない。人類至上主義をベースに気付かれた都会の喧騒から遠く離れた自然に自ら赴く時が来たら、自己とは一体何なのかという問いに対する答えが、自ずと我々の心の奥底から流露してくるはずであることを願ってやまない。

 

 

 

社会思想の古典を論ず 6月30日

 

私はこの講義を通して、言葉の不便さとそれがあるが故の魅力という二面性を何度も考えさせられた。社会契約論の冒頭にルソーはこう主張している。

 

「人は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている」

 

私にはこの主張が一番胸に堪えたのだ。なぜならこの主張によって平和と無垢をもう味わうことのできない社会状態というものを再認識させ、私を孤立させたからだ。今日という日は、二度と来ないとよく母に叱責される私であるが、なぜかそういう時に限って、時を意識している自分に会うものだ。また、時とともに万物は移ろい行くものなのだと考えるものもいる。だから、私もそうなのではないかと考えてしまう自分に会うものだ。このような私は、きっと鎖につながれている事すらも忘れているのではないか。では冒頭でも述べた言葉の不便さとは一体何なのか。

宮崎駿氏が、某テレビ番組で五歳というのは人間と神様の最後の境目であり感覚的に大人以上に何でも知っているが、ただそれを言葉で説明できないのだと言っていた。その言葉の自由の獲得とともに言葉を利用する自由を与えられたのも事実である。言葉のデータベースの中から選択する自由を得たが、その代償とともに社会という人為によって構築された世界を人類と共にする契約を結ぶ必要性が出てきたのも事実である。こうして人為を人為で償わなければならない新たな自由を課せられることになるのだ。おそらくそれは後戻りのできない成功とでも称しましょうか。言葉の獲得とともに、一人称の世界の門戸が開かれることになるのだ。こうして生まれつつある人間は今まで以上に幸せを感じられずにはいられない事に気づく。そして、文明社会の前駆体でもある家族という社会が築かれる。前駆体と申しましたが、やはりこれは文明社会とは、似て非なるものであるとルソー自身もその事については言及しているのでこれ以上の説明は必要ない。そして、安らかな日々が忙殺と化す市民社会へと移行する。これも全て、言葉の所産によるものであると言っても言い過ぎではない。従って、言葉の不便さは主に、私は冒頭の文でも述べた鎖にあたるものだと解釈している。我々は鎖なしでは生きていけない。それも言葉は話しかける道具としての特性を持っているのが不便さの所以である。持ちつ持たれつとは良い意味で使われるがその関係性こそが最終的に変貌を遂げ格差のある社会を作り上げてしまうのだ。

こうして二人称然り三人称の門戸は一人称の門戸とほぼ同時に開かれるのだ。しかしその扉は二度と開く事のない絶壁と化すのである。言葉の不便さあるがゆえの魅力は最後の方に書くつもりである。では、どうすれば言葉の不便さを克服できるのか。そこに焦点を置きながら話を進めていく事にする。

我々の講義でも一層話がたえることのなかった一般意志であるが、字面だけでは想像もつかない物語をはらんでいる事を知る由もなかったのは実際仕方のないことである。私の一般意志への第一印象はあまりよろしくはなかった。それはおそらく、一般意志の最終目的だけに目がいき、肝心なプロセスを辿るのを怠ったためである。私は、授業中に迷える子羊の話をした。私が何の前触れもなく闇の中にいたらというたとえ話である(多少脚色してはいますが)。まずどうするだろうか。光を当然求めるのではないか。文明かぶれである私がライターで火を灯すというのは想像の容易い必然的な流れである。それとほぼ同時に火の玉が六つ灯るのは予想外であるが、そこには我らルソーを語るメンバーの顔が一瞬にして映えわたり、一瞬にして驚愕した顔でお互いを迎え合うという何ともシュールな幕開けである。そして、多少今ある自分達の置かれた立場を理解して数分がたちある一人の男が口火を切る「ここから脱出しよう」と。この時我々の本能は自己保存の達成へ、理性は個別の利益に向かっている。これが強ければ強いほど、我らルソーを語るメンバーの未来は明るいのである。幾度となく我々の行く手を阻むことで、我々は議論をするのである。この時、自分以外のメンバーに付和雷同してはいけいない。あくまでも自分自身の意見を持つということが何と言っても大切である。こうすることで意志の一般性も高まるのである。ルソーも、こんなことを言っている。

 

「それではなぜ一般意志は常に正しいのか。なぜ全ての人は、各人の幸福を願うのだろうか。それはこの各人という語が語られるとき、それを自分のことだと考えない人はいないし、全員のために一票を投じるとき、自分のことを考えない人はいないからである。」

 

私はこの各人という言葉を見た瞬間、一気に鳥肌がたったのを覚えている。ルソーの強い気持ちというのを全面に感じ取った引用文である。

このように個々人が自分の意見を持つことで、例え漆黒の闇の中でもわずかな希望の光は灯され続ける。しばらく経つとそこには幾数にもわたる光の灯の存在に気付き、最終的に一つ一つの灯が闇をもつつむ大きな希望の光と化すのである。こうして言葉の不便さも意志疎通という形で克服できる。タイムリーな話題を提供するとやはりサッカーの日本代表である。2006年との違いはやはり結束力である。中田という絶対的な存在を欠くなかでなぜあれだけ躍進できたのかは、個々のコミュニケーションによるものである。個々の存在を全面にだしかつそれが全体の利益となるのだ。

話を少し戻さなくてはならない。そもそも人々は、なぜ社会契約というのを結ばなくてはならなかったのかという問いに、私は冒頭で人為によって構築された世界を人類と共にしなければならないと述べている。その根本的な理由は独りでは自己保存を達成できないからである。こういう理由のもとに契約を結んだというのは本書に何度か出てきているので詳しくは述べないが、この契約のもとに一般意志というのが成立する。しかしこの契約はとても恐ろしい側面を兼ね備えているのも事実である。ルソーはこう述べている。

 

「個人は国家に生命を捧げたが、この生命は国家によってつねに保護されている。個人は国家を防衛するために生命を危険にさらすがこれは国家から与えられたものを国家に返すだけである。必要とあらばすべての人は、祖国を防衛する戦争に赴かなければならない、しかし誰も自らの生命を守るために戦う必要がなくなったのも確かである。」

 

古代ローマもマリウスの軍制改革をする前までは、軍と政治は分離することなく機能していたが、それもやがては機能しなくなった。その理由としては領土の拡大やそれに伴う経済状態の悪化というのもあるが、兵役を義務(プロレターリ以外の人々)ではなく志願制つまり職業にしたからというのが大きかったと塩野七生氏は述べている。つまりそうすることで、市民は契約を結ぶのをやめてしまった。上記にあるように祖国を防衛する戦争に赴く必要がなくなってしまった。私はルソーの「しかし誰も自らの生命を守るために戦う必要がなくなったのも確かである」という一文は確かに危険ではあるがそれを真に受け止めることのできた当時の人々がとても羨ましいのである。

最後ではあるが、ことばの不便さあるが故の魅力とはなにかということであるが、私も予期せぬ事にもう述べてしまっていた。我々は言葉を持つ事で必然的に他人とつながることを約束するが、約束は裏切るものとして存在するものでもある。しかしそこで反省するのが人間である。なぜなら、共感を求めているからである。私はそこに行きつくまでのプロセスに魅力を感じるのである。紆余曲折したが、私が言いたい事はこの最後の段落に集約されていると言っても良いだろう。